先日の記事「東京のカオス感について考えてみた。前編」、のつづきです。
まわりをぐるぐる見回しながら気づいたことは、「東京は狭い」ということです。そして多分これは「日本は狭い」にも置き換えられる。
「狭い」と言っても、面積的・相対的な意味ではないです。感覚的な意味。
そしてそのとき「あっ!」て思ったのは、「カオス感」を感じる瞬間っていうのは、「その場所にいるその一瞬を、ある一定量の名詞・形容詞などで表現しきれない時」なのではないかと。
つまりこういうことです。
まず、東京のある場所で立ち止まる。どこでもいいです。そして視界に飛び込んでくる光景を1枚の写真として切り取ってみます。
その後10秒くらいで、目に見えたモノ・色・におい・人・感情などを言葉にぶわーーーって変換してみる。
たとえば前回書いた秋葉原の例:
神田を過ぎると、いきなり目の前にギラギラしたSEGAの看板とばかでかいパチンコ屋さんと焼き肉屋とラオックスと萌え萌えアニメと大音量のアニソンと、通りでぶりぶりしてるメイドさんとメカメカした電機部品とドンキホーテとAKBとガンダムと数え切れない外国人が共存してて、とにかく異世界感ハンパない。超うるさいし、ビカビカのライトアップがされてあちこち萌えキャラだらけでしばらく歩いてるともう上野公園っていうこの感じ。
だったら、
神田、秋葉原、上野、SEGA、ゲームセンター、赤、mAAch、モダン、万世橋、歴史的、メイド、若い、女子高生、オタク、外国人、中国人、ヨーロッパ、集団、人多い、そば、電車、総武線、ジオラマみたい、アニメ、萌え、アニソン、うるさい、かわいい、スマホ、電気屋、リュック、カラフル、ライトアップ、水樹奈々、家はもうすぐ…
10分くらい立っていたら、あと5倍くらい書き出せると思いますが、その瞬間瞬間で自分に飛び込んでくる世界はきっとこれで精一杯。
つまり、自分の感受性のキャパを超えて頭の中をぐるぐるいろいろなものが駆け巡ってもう考えるのも億劫になってしまう状態が、「カオス」なのではないかと思ったのです。
他の例にも当てはまって、新宿や渋谷もそうです。
もっとわかりやすく。以下の写真を比べてみます。
by takato marui
渋谷センター街と、南アルプスの写真です。これを、「自分がその場にいて一瞬を切り取った」と考えてみる。そして目に飛び込んでくるあらゆるものを、一斉に言葉に変換してみる。
すると、圧倒的に渋谷の方が言葉にできる量が多くないですか?そしてひとつひとつが濃く、強く、具体的で、それが多すぎてすべてを言葉に仕切れない、自分のキャパを超えてぐちゃぐちゃしたものがある。
もちろん、南アルプスも感情に訴えてくるものが多いのは確かです。でもここで言いたいのは南アルプスの写真にカオスを感じるかどうか。きっと感じないでしょう。それは頭の中をぐるぐる駆け巡るものが無いから。もっと上品な詩的な感覚で、すごくすっきりとしてます。
そのぐちゃぐちゃしているものの正体は、突き止めていけば結局は名詞や形容詞などの「言葉」だと考えることができるのではないか。そしてきっとその数がカオスかどうかの正体。そう結論づけました。
日本は狭い
はじめに「東京は狭い」と言いましたが、東京が「カオス」なのはその狭さゆえです。自分がものすごい幅広くて遠くまで見える視野を持っているとして、今度は渋谷でも新宿でもなく「東京」という1枚の写真を切り取ってみる。
もう何を言おうとしているのかわかりますよね。渋谷新宿原宿浅草秋葉原上野池袋品川…とはじまり、そこからさらに細かいモノがたくさん…あまりにも言葉が濃く凝縮されています。
それを今度は「東京」ではなく「日本」にしてみます。「日本」という1枚の写真。カオスですよね。日本の中に、ありとあらゆる異なった言葉が凝縮されている。だから日本はカオスなのです。
そして、きっと外国人は日本のことをカオスだと思ってはいないのかもしれません。それは日本全体を把握し切れていないし、言葉にするための言葉を十分に持ち合わせていないから。
反対に、アメリカをカオスだと言えるくらいの背景が僕らにはおそらく無い。日本のカオス感は日本人だけの感覚なんじゃないかとも思いました。(これも話すとキリがなさそうなのでやめます)
こうやって書いてみると、自分が思っていることをブログ程度の長さで的確に説明するのはすごく難しいことがわかります。なんとなく、僕のカオス論伝わったでしょうか?]
何人かに「カオス感」について聞いてみましたが、もしご自分の「わたしはこう思う!」があれば聞かせてもらえると嬉しいです。カオストークしましょう。
それでは!