ネイティブは英語の練習相手ではない

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久しぶりに書きます。英語について最近思うこと。

 

僕は今、ゲストハウスで仕事をしていることもあり、ほぼ毎日英語を使っています。夜にはバーの営業もあるため、そこではいつも英語の会話が当たり前のように飛び交っている。日本にいながら、英会話学校や朝活のようなものではない、本当に「リアルな英語」の場がそこにはあります。

「リアルな英語」というのは、気心の知れたネイティブ、日本語を勉強しているネイティブとかそういうあらかじめ親しみのある人同士の英語ではなく、例えばニューヨークの電車でたまたま隣になって喋る、のような「無差別」なネイティブを相手にした会話のこと。

こういう会話は、日本に居ながら英語を学ぶ人にとってはものすごく貴重でありがたい存在です。

 

英語を学習していく上で必ずぶつかる壁があって、その1つが、心の奥底で、そういう「無差別なネイティブ」を「自分の英語の練習台」として捉えてしまうレベル。あらかじめLanguage Exchange目的で、会話の練習台としてお互いが合意していれば何も違和感は感じないのですが、「無差別なネイティブ」を、ひとりの人としてすんなりと受け入れられない段階は、まだ自分の英語に自信がないというか、越えていない壁みたいなものがあるんだと思います。

ネイティブと会話をしているいろんな日本人を見ていると、どんなに年齢が上で、人生経験が豊富な日本人でも、英語レベルがそのネイティブよりも低いというだけで、幼稚で知的レベルも低く見えてしまいます。

だから、相手の英語レベルに必死に「合わせようとする」自分がたまにいます。そうすると、知らない単語があっても知ったかぶりをして、うんうんと頷いてしまったりします。すごくかっこわるい。

 

僕の目標はそういうものすべてをフラットにすること。言語レベルの違いというフィルターを取っ払って、対等にわかり合えるレベルまで英語力を高めること。ものすごく感覚的な基準ですけどね。もはやTOEIC何点とかいう定量的な指標はどうでもいいです。

 

「無差別なネイティブ」を、「無差別なひとりの人」としてその出会いを大切にできるようになると、またひとつ、英語レベルも、それから人としてのレベルも上がるんじゃないか、そう思うこの頃です。