【Traveler’s boxより転載】僕は世界を何も知らなかった。ニューヨークで感じた本当の多様性

10ヶ月の留学生活を終えて感じたことを、かなり気合いを入れてまとめた記事が、旅マガジンのTraveler’s boxに掲載されました。集大成とも言える記事なので、このブログにも全文を転載したいと思います。

 

《以下転載》

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僕がニューヨークに来てから10ヶ月が経ち、交換留学のプログラムが終わろうとしている。「ニューヨーク」という響きには、夢や憧れがたくさん詰まっていて、どこか詩的な印象を覚える人も多い。

ここには本当に多様な国籍、人種の人がいて、日々いろんな文化の違いに出会い、衝撃を受けることも少なくない。まるで誰が「アメリカ人」なのかわからなくなってしまう感覚は、少し街を歩いてみればすぐにわかる。

ほぼ単一民族国家である日本に生まれ、熱心に崇拝する神様も不在で、日本人としてのDNAを深く刻み込まれた僕は、この多様性を受け入れずにはいられない10ヶ月の間に、世界の広さと、自分の無知さを思い知らされた。

 

初めて黒人街を1人で歩いたとき

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ブルックリンにあるウィリアムズバーグというお洒落な街にはじめて行ったとき、道に迷ってしまい、気がついたら右も左も体の大きい黒人だらけの町に入り込んでしまったことがある。麦わら帽子とリュックを背負って、いかにも観光客らしい身なりで歩いていたので、道行く人たちに馬鹿にされたような目で見られた。ニューヨークに着いて3日目だったので、正直とても怖かった。

 

のちにアメリカ人の友人たちとの会話で、

“I was so scared!(すげー怖かったんだよ!)”

とそのときの話をしたら、

You are racist!(人種差別だ!)

と言われて衝撃を覚えた。

 

人種や民族という感覚にまったくもって疎かった僕は、「え?これだけで?」と戸惑いを隠せなかった。怖かった、というそのときの正直な気持ちを「人種差別」と言われてしまう感覚は、僕には無かった。アメリカの歴史は、戦争と自由、正義と人権で成り立っていると言っても過言ではない。アメリカという国は、差別には本当に神経質で、多様性を重んじる。

これをきっかけに、僕の無知さを露わにする出来事を次々と経験した。「日本人」の僕は、日本ではめったに耳にしない“Race(人種)”という言葉に敏感になっていった。

 

「お酒は飲まないよ。だから強要しないでね。」

ある中国人の女の子は、毎回テーブルに肘を付けながらご飯を食べ、お皿に少し料理を残す。これは中国のマナーだとその子は言う。

僕が料理を取り分けてあげようとすると、僕の箸に彼女の箸をくっつけて料理を受け取ろうとした。僕は、それは日本では縁起の悪いこととされているんだ、と説明した。

中国は共産主義国家か社会主義国家かという話もしたことがある。彼女は社会主義国家だというが、僕は簡潔な理由を並べられないまま、社会主義でも共産主義でも資本主義でもない国だという認識であることを話した。

留学生同士で各国の紹介をプレゼン形式で行ったとき、イギリス人の友達は、「イギリスという国は4つの地域から成り立っていて、正式名称はGrate Britain…」という説明を歴史とともにしてくれ、トーゴ出身の友達は、「トーゴには最初にドイツが来て、次にフランスが来て…」という植民地時代の話をしてくれた。台湾の友達たちは、「私たちは中国じゃない!」と強く語っていた。

 

僕はどれも知識が曖昧で、「自分って、何も知らないんだな。」と思いながら聞いていた。

 

ルームメイトにはゲイがいたし、フランス人系アメリカ人の友達の女の子は、挨拶には欠かさずキスとハグをする。両親がハイチ出身のカリビアンアメリカンの女の子は、黒人の総称がアフリカンアメリカンであることに怒っていた。日本人数人が学校のイベントでソーラン節を披露したとき、使った「大漁」の旗が「日章旗」に似ていたことから、韓国人の友達が日韓戦争の話を取り上げて、「君たち、旗の意味わかってる?」と小さな抗議をしてきたこともあった。

 

あるパーティの席で、いかにも日本の大学生らしく、バングラディッシュ人の女の子の友達にお酒を勧めたら、「お酒は飲まないよ。だから強要しないでね。」と言ってきた。それまで僕は、その子が敬虔なムスリムであることを知らず、とても恥ずかしく思った。

 

真のグローバルとは

アメリカ人のルームメイトが「日本人っていつも日本人同士で一緒にいるよね。俺の両親はコロンビア人だけど、コロンビア系の友達といつも一緒にいたいとは全く思わない。もっと色んなやつと付き合いたい」と話してきたことがある。

 

僕ははじめ「アメリカ人だってそうじゃないか」と思ったが、このことは、ひとつの大切なことを教えてくれる。日本人が日本人同士集まることと、アメリカ人がアメリカ人同士集まることでは全く意味が違うということだ。日本人の場合、両親も日本人で日本で生まれ育ってきた場合がほとんどだが、アメリカ人はそうではない。一概にアメリカ人と言っても、両親はアメリカ以外の国から移民としてやってきて、母国語も、肌の色も、文化や習慣も違うことが多い。アメリカという国では、生まれたときから「多様性」という環境に囲まれているため、アメリカ人は日本人よりもはるかに多くの文化や民族の背景知識や常識が備わっている。「アメリカ人同士で集まる」と、顔も、アクセントも、食習慣も、体格も、髪の色も、何もかもが違うのだ。

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僕はひとつの問いにぶつかった。真のグローバルな人とはどういう人のことを差すのか。

 

それまでの僕は、英語が流暢に話せて、海外にいつも居て、外国人に囲まれていればグローバルな人間の条件を少なからず満たしていると思っていた。しかし、それはあまりにも浅はかだった。

 

僕は何も世界を知らなかった。本当の世界を感じるとは、英語が話せて、世界の歴史や宗教を知識として学ぶことではない。実際の生活で多様性に直接触れ、たくさん恥ずかしい経験をして、そこである種自分の無知さに打ちひしがれて初めてわかるものだ。自分という存在がマイノリティな世界に飛び込んで、多くの経験を積み重ね、まるでカメレオンのように色を変えられる柔軟な人間になっていくことこそ、本当のグローバルと言えるのではないか。

 

たくさんの恥ずかしい思いをして、自分が世界の何も知らないということを知った10ヶ月間は、結果としてものすごく濃密なものとなった。

《以上Traveler’s boxより転載》
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