偉大なるアンコール遺跡群

どうやらAngkor(アンコール)とは、「街」を意味する言葉らしい。

アンコール・ワットは、「寺院のある街」。アンコール・トムは、「大きな街」。

西暦1000年前後に栄えたかつてのアンコール時代には、両者とも人口数十万を支えた街だった。

 

早朝5時30分。

アンコール・ワットの日の出を一目見ようと、たくさんの人がかけつけた。

合掌する手の形とも、蓮の花の形とも言われる5つの塔がはっきり見える位置でカメラを構えた。

あたりは刻々と日の目を浴びていき、視界が開けていく。

残念ながら朝日に雲がかかっていたその日は、期待通りの景色を許してはくれなかった。

人より一足先に第1回廊へ向かった僕らは、早朝だけに広々とした空間を堪能することができた。

 

あまりにも繊細でシャープな彫刻が次々と並んでいる。

いくつか修復されたものはあるにしろ、芸の細かさと規模には圧倒される。

シェムリアップとは、「戦に敗れたシャム」という意味があるらしい。シャム(昔のタイ領、現在のシェムリアップ)とカンボジアの戦や、王宮遷都の物語が細かく描かれていた。

人口数十万を超える街だったと述べた。

第2回廊から第3回廊へと進んでいくうちに、当時たくさんの町人や僧侶たちで賑わっていた雰囲気が伝わってくる。不思議なことに、本当に人の気配を感じるのである。

壁に寄りかかって座っているおばあちゃん、柱を使ってかくれんぼをしている子ども達、列に並んで彫刻刀を握る彫刻家、階段を一歩一歩慎重に上る僧侶。そんな光景を容易に想像させるオーラがある。幽霊かなにかいるんじゃないか。

タイの寺院では、人で溢れていたシーンを想像するのは難しかったけれど、カンボジアでは、他の寺院からもたくさんの人の気配を感じることができた。

勾配の急な階段を上って、本堂の第3回廊に向かう途中、改めてこの巨大な石をどうやって積み重ね、どうやって彫ったのか、謎に包まれるばかりのアンコールの遺跡に、僕の思考は飲み込まれてしまった。

アンコール・ワットは、数万の観光客を魅了する偉大な存在である。目で見るに限らず、感じやにおいもその醍醐味の1つであろう。

 

次の目的地は、クバール・スピアン。

シェムリアップ川の源流にあたるこの川へは、車を止めてから40分ほど山道を登ったところにある。

何を思ったのか、僕らは豪雨の中、レインコートという名のゴミ袋を被ってドロドロの山道を歩いた。

頂上では、シヴァ神をはじめヒンドゥー教の神様が彫られた石が濁流の中に姿を現し、異彩を放っている。

その下には、クバール・スピアンの滝が音をたてて流れている。

僧侶が修行を積んだ地だと言うが、豪雨の中の登山で疲れきった僕らは、修行どころか肩を上下させるだけで精一杯だった。

「東洋のモナリザ」と呼ばれる彫刻を持ち、自然の緑に映える赤土が象徴的な寺院は、バンテアイ・スライ。

なぜだかここは、過去に人がいた気配をあまり感じなかった。もしかしたら、あまりにもシャープで美しすぎる彫刻に、人を超える何かを感じさせられたからかもしれない。赤土をもって他の寺院とその景色が差別化されるバンテアイ・スライは、ビジュアルとして印象に強く残っている。

僕らが「カンボジアの遺跡好きだ~」と確信したのも、確かこのあたりだ。

 

何重にも絡まるスポアンの木の根が驚異的な、タ・プローム。

ここは、先日見たベンメリアに雰囲気が似ている。あまりにも大きなその木は、根っこも全ては視界に収まらない。上を見るのが億劫になるほどの迫力だ。

カンボジアの遺跡は、不思議なことにほとんどの仏像の頭が無くなっている。戦争で失われてしまったのか、誰かが意図的に取り除いたのか…。不気味なほどに、体だけがその形を残している。

 

最後に訪れたのは、冒頭にも述べたアンコール・トム。

よく勘違いされるらしいが、アンコール・トムは当時の街の名前で、バイヨンというのが遺跡の名前だという。

バイヨンの塔には、いくつもの顔が残っている。遠くから見ると、バイヨンの塔が、最も合掌に近い形をしていることに気づいた。

「大きな街」の名を持つだけある。勝手な妄想だが、岩陰に隠れて遊ぶ子ども達、手を合わせてお祈りをする女性の姿が手に取るように見える。

これでもかというくらい、たくさんの寺院や遺跡を見てきたが、カンボジアの石造りの遺跡はいくつ見ても飽きない。毎度お馴染みのナーガやヒンドゥー教の神々の彫刻にも、それぞれ違いや特徴がある。笑っているもの、悲しげなもの、ボロボロに崩れているもの。その全てが、今現在でも、様々な自然の力によって少しづつ姿を変えていると思うと、歴史の連続性や時の流れの不思議さに吸い込まれてしまいそうだ。

 

賑やかだったアンコールの街は、今でも観光地という違う形で、人陰を絶やさず、どっしりと腰を据えて僕らを見守っている。

目で見るだけでは感じ取れない、言葉では表現しきれない感覚的な素晴らしさがそこにはあった。